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アインシュタイン深掘りの巻…⑤晩年とノーベル賞秘話

2018-11-1 NEW!
カテゴリ:つぶやき

 

ドイツが原爆を開発するという現実・・・。アインシュタインは、仲間の勧めでアメリカ大統領に手紙を書きました。

 

「緊急の行動が必要な状況です。きわめて強力な新型爆弾が製造される可能性があります。」

 

この手紙を機に、原爆を開発する「マンハッタン計画」が始まりましたが、1945年、アインシュタインが66歳の春には、ドイツの敗北は明らかになっていました。アインシュタインは、再びアメリカ大統領に手紙を送り、原爆開発の中止を訴えます。しかし、この訴えが届く事はなく・・・そして・・・私の故郷、広島に原爆投下・・・それを知ったアインシュタインは、ひどく落胆したそうです…。

 

戦後、アインシュタインは、科学者が先頭に立って平和を実現しようという委員会を発足。世界全体で核兵器を管理する体制が必要だと訴えます。終戦から3年、アインシュタインは、アメリカに来ていたある日本人を訪ねます。日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹でした。部屋へ来るなり、手を固く握って涙を流し、「罪のない日本人を殺すことになって申しわけない。」と泣いたといいます。

 

晩年、アインシュタインは、統一理論と核管理の実現に全てを注ぎました。しかし、そのどちらも達成することなく・・・1955年4月18日、亡くなりました。・・・76歳の生涯でした。そんなアインシュタインの葬儀は、驚くほど簡素なものだったそうです。参列したのは、家族や友人など僅か12人・・・遺言によって墓は作られず、遺灰は川へ・・・。シンプルな美しさを追い求めたアインシュタインらしい最期でした。

 

若くして科学の常識を打ち破る大発見をしながら後半生は苦い経験をしたアインシュタイン・・・。そんなアインシュタインは、若者にこう残しています・・・

 

「戦争中、科学は人々に毒を盛りました。平和な時には、私たちの生活を忙しくしました。人間を機械の奴隷にしたのです。あなたが図形と方程式を解いている時、このことを決して忘れないでください。」

 

アインシュタインは、1922年のノーベル賞を取ったことは有名ですが、その理由については誤解している人が多いかもしれません。たいていの人は、「アインシュタインは相対性理論で有名なので相対性理論でノーベル賞を取った」と思っているでしょう。しかし、それは誤解です。

 

なんと、相対性理論は難しすぎて、従来の物理学を根底から変えてしまうあまりにも革新的な理論だったので、頭のかたいノーベル賞の選考委員は、評価して良いものかどうか判断できなかったのです。とはいえ、世間では「相対性理論はすごい」と評判は沸騰する一方で、ノーベル賞を出さないというのはとても不自然な状況に…。更に、アインシュタインがユダヤ人であったため、そこに民族差別の問題が複雑にからみ、選考委員はすっかり追い詰められてしまったというのです。

 

こうした窮地から脱するために、選考委員がとった苦肉の策が、安全策として光量子仮説に対してアインシュタインにノーベル賞を与えることだったと言われています。キュリー夫人のように、ノーベル物理学賞の後にノーベル化学賞を受賞するということはありますが、制度上、ノーベル物理学賞を一度でも受賞したら、同じ物理学賞を再度、受賞することはできないんだとか…。かくして選考委員は、相対性理論の評価という重責から逃げ出すことに成功した??そうですが…。

 

ところが、アインシュタインは、ノーベル賞受賞記念講演であえて「光電効果」ではなく「相対性理論」をテーマにしました。自分の嫌いな量子論でノーベル賞を取ったことが面白くなかったからなんだとか…。なんとも、こんなユニークなエピソードもあったんですね。

 

第5回まで突入したアインシュタイン【深掘り】シリーズですが、まだ終わらず、死後の世界についても書かせて頂きます。続きは、再び姉妹サイトへ・・・
 

 

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