ティータイム

女子テニス界の伝説の人「キング夫人」の映画

2019-8-27 NEW!
カテゴリ:つぶやき

 
少し前になりますが、女子テニス界のレジェンド「ビリー・ジーン・キング」の実話を基にして作られた【バトル・オブ・ザ・セクシーズ】という映画を観ました。正直「キング夫人」が1960年代から1980年代初頭までの四半世紀にわたって女子テニス界に君臨した凄い人という事は知っていましたが、何故、あそこまで有名だったのかが、この映画を観る事で知る事が出来ました。映画の公式サイトには以下の様に作品紹介されています。

 

***********************************************************
女と男の歴史的テニスマッチを描く感動のスポーツドラマ!
       絶対に負けられない!

 

全米女子テニスチャンピオンのビリー・ジーン・キングは怒りに燃えていた。全米テニス協会が発表した次期大会の女子の優勝賞金が、男子の1/8だったのだ。仲間の選手たちと“女子テニス協会”を立ち上げるビリー・ジーン。資金もなく不安だらけの船出だったが、著名なジャーナリストで友人のグラディス・ヘルドマンがすぐにスポンサーを見つけ出し、女子だけの選手権の開催が決まる。時は1973年、男女平等を訴える運動があちこちで起こっていた。女子テニス協会もその機運に乗り、自分たちでチケットを売り、宣伝活動に励む。

 

トーナメントの初日を快勝で飾ったビリー・ジーンのもとへ、記者会見の前に髪を切ってくれた美容師のマリリンが訪ねてくる。夫のラリーを愛するビリー・ジーンは彼女に惹かれる自分に戸惑うが、ときめきに抗うことはできなかった。その夜、かつての世界王者のボビー・リッグスから電話が入り、「対決だ! 男性至上主義のブタ対フェミニスト!」と一方的にまくしたてられる。55歳になって表舞台から遠ざかったボビーは、妻に隠れて賭け事に溺れていたのがバレ、夫婦仲が危機を迎えていた。再び脚光を浴びて、妻の愛も取り戻したいと考えたボビーの“名案”が、男対女の戦いだった。

 

ビリー・ジーンに断られたボビーは、彼女の一番のライバルであるマーガレット・コートに戦いを申し込む。マーガレットは挑戦を受けるが結果は完敗、ボビーは男が女より優秀だと証明したと息巻くのだった。逃げられない運命だと知ったビリー・ジーンは、挑戦を受ける。その瞬間から、世界中の男女を巻き込む、途方もない戦いが始まった──!
***********************************************************

 

以下、キング夫人についてはWikipediaからテニスの歴史にも多少触れながらご紹介させて頂きます。

 

映画の主役となるキング夫人は女子テニス協会(WTA)を設立し、女子テニス界のシステムを変革した選手として、女子スポーツに革命的な影響を及ぼした存在でした。1960年から女子テニス界で活動を始め、1961年のウィンブルドン女子ダブルスカレン・ハンツェとペアを組んで初優勝、同大会女子ダブルスでは1962年と1965年にも優勝。1965年にラリー・キングと結婚して「ビリー・ジーン・キング」夫人と名乗るようになると、この年から彼女のキャリアは大きく開花し、1966年のウィンブルドンで初優勝。

 

以後、1968年までウィンブルドン女子シングルス3連覇を達成し、1967年には全米選手権でも初優勝を飾ります。とりわけ、1967年にはウィンブルドンと全米選手権の2大会連続で「ハットトリック」(同一大会でシングルス・ダブルス・混合ダブルスの3部門をすべて制覇すること)を達成しています。(サッカーの様にテニス界にもハットトリックと呼ばれるものがあったのですねぇ)1968年は全豪選手権で女子シングルスと混合ダブルスの2部門を制しますが、全豪優勝はこれが唯一。

 

1968年にテニス界は史上最大の転換期を迎え、プロ選手の4大大会出場を解禁。大会の名称も変更されて、お馴染みの全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン選手権、全米オープンとなります。キング夫人はアマチュア選手として4大大会出場を続けてきましたが、直ちにプロ選手に転向。最初の年にあたる1968年、キング夫人はウィンブルドン選手権で女子シングルス3連覇とダブルス5勝目を記録します。テニス4大大会でも賞金制度が導入されましたが、この当時は「男女の賞金格差」が大きな問題になっていました。ビリー・ジーン・キング夫人はこの問題と取り組み、さらに大きな段階を踏み出していきます。

 

女子テニス選手に与えられた賞金は男子の8分の1ほどに過ぎず、男女の賞金格差は大きな問題になっていました。キング夫人はアメリカで1970年代初頭に起こった男女同権運動でリーダーシップを取り、男子選手たちから離脱した「女性によるテニスツアー」を提唱。これが1973年に発足した「女子テニス協会」(WTA)の原型となるのです。

 

1973年9月20日、ビリー・ジーン・キング夫人は当時55歳になっていた往年の男子選手、ボビー・リッグス(1918年 - 1995年)と有名な「男女対抗試合」を行ます。2人の男女対抗試合は映画のタイトルともなる“The Battle Of The Sexes”(性別間の戦い)と銘打たれ、大々的な告知が行われたそうです。9月20日にテキサス州ヒューストンで行われた試合会場には3万人を超える観客が集まり、テレビ中継でも大勢の人々が見守っていました。キング夫人はリッグスに 6-4, 6-4, 6-3 のスコア(5セット・マッチのため、3セットのストレート勝ち)で勝利を収め、女性の持ち得る力を証明しました。この試合をきっかけに、興行としての「女子テニス」が発展し始め、キング夫人はその後も女性の権利のために戦い続けたそうです。この姿勢は、後にマルチナ・ナブラチロワに大きな影響を与えることになります。

 

ビリー・ジーン・キング夫人の最後の4大大会女子シングルス優勝は1975年のウィンブルドンで、通算12勝。同選手権の女子ダブルスでは、1979年にマルチナ・ナブラチロワとペアを組んで6年ぶり10度目の優勝を成し遂げています。混合ダブルスでは1974年まで4度優勝したため、これでキング夫人のウィンブルドン通算優勝記録は20勝(女子シングルス6勝+女子ダブルス10勝+混合ダブルス4勝)。

 

スポーツ選手の試合中の感情表現には様々なタイプがありますが、ビリー・ジーン・キング夫人は典型的な感情発散型タイプの選手として有名でした。試合中に自分に何事かを言い聞かせたり、足踏みなどもしながらプレーしたりする姿は、時に攻撃的な雰囲気になることもあったようです。

 

テニス競技の過渡期に活動した人であることから、キング夫人の優勝記録は種々に分類されます。アマチュア選手として獲得したもの(うちシングルス37勝)、プロ選手の4大大会出場が解禁された「オープン化時代」以後にプロ選手として獲得した勝利数(シングルス67勝、ダブルス101勝)。4大大会通算優勝記録は、シングルス12勝、女子ダブルス16勝、混合ダブルス11勝で、総計39勝を獲得し、1987年に国際テニス殿堂入りを果たしています。

 

丁度昨日から全米オープンが始まっていますが、こうして楽しめるテニスも色々な事があって現在に至るのかと思うと、随分と華やかになってきたのが良く分かります。ついでになってしまうのも何ですが、錦織選手、大坂選手頑張れ~っ!! 錦織はとても良いスタートを切っていますし、大坂もそろそろメンタルリセットして欲しいものです!!

 

にほんブログ村 その他日記ブログ 日々の気になることへ  にほんブログ村 サラリーマン日記ブログ 平凡サラリーマンへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ  

 

 ※姉妹サイト「BLACKBOX」は、こちらです。

 

 

TOPへ戻る